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2010年6月23日水曜日

東京神田 丸石ビルディング


古い建造物の彫刻が訪れる人達をやさしく癒してくれる

東京には古いビルが点在している。その中でも神田には古い建物が多く存在する。丸石ビルディングは当初,大洋商会ビルディングとして1929年(昭和4年)に着工。1931年竣工(本館)1933年に増築(新館)。着工当時はニューヨークの株が大暴落して世界恐慌の年。
所在地:東京都千代田区鍛冶町1-10-4(JR神田駅南口徒歩3分)


米国ではエンパイアステートビルが竣工。この当時の高層建築技術で驚くべきことに1929年から1931年の3年間で米国人は102階建のビルを建てた。米国・世界貿易センタービル(ツインタワーのWTCで全高528m屋上417m110階)が建つまでの42年間、世界一の高さを誇ったが世界恐慌の影響で1940年代までオフイス部分は多くが空室のままであった。

残念ながら、日系人ミノル・ヤマサキ氏が設計した、世界貿易センタービル(WTC)は2001年9月11日の同時多発テロで消滅。旅客機の激突テロに内部崩壊を招く爆弾テロというテロの標的にされてしまった。エンパイアは現在もニューヨークで1番高いビルである。
現時点で世界一は168階建ブルジュ・ハリファ・屋上高636m全高=尖塔高828m(アラブ首長国連邦ドバイ2004年着工2010年竣工)

3年程放置すると黒くなり、緑色に汚れていく。写真をクリックすると拡大できます。

丸石ビルは2010年現在で築80年になる。デザインは近世ロマネスク様式である。

建物の南側と北側で20個のアーチ状の壁面にレリーフ(浮き彫り)彫刻でキリスト教に関係ある動植物の彫刻が施された、地下1階・屋上にペントハウスがある地上7階建て鉄骨鉄筋ビルである。今はなくなってしまったが一階の通りに面した歩道の床にガラスブロックが埋め込まれた地下室用の採光窓が奥行き500x巾2000㍉位のが2面あった。

上段の左下から花・七面鳥・獅子・羊・牛・魚が左右で一対・頂点にワシがいる。キリスト由来のレリーフ彫刻。2段目がブドウとブドウのつる。アーチの両側下方には聖人(聖職者・キリスト?)がいる。(写真をクリックすると拡大できます。モニタ右上のXで戻れます。)

ビルの内外を探索すると、このビルには天才的センスの設計者の英知が所々に見え隠れする。(時々細部にわたって機能的・アート的な発見をする事が多い)機会があれば、次回以降にその一部でも、紹介したい。

デザインはイタリアの教会などの彫刻に多く見られる紋様である。施工は竹中工務店。設計は山下寿郎設計事務所(三菱地所の設計部に在籍。東京駅の旧丸ビルの設計や三菱銀行本店を始め日本初の超高層・1968年竣工の霞が関ビル=地上36階、地下3階、地上高147mの設計など数多くの作品を残した。)高層ビル設計の裏には日本の統治時代であった台湾(国立台北科技大学)出身の秀才で日本語が堪能な東大の工学部建築科で教鞭をとり建築計画学の研究家であったKMGグループ代表の郭茂林=カク・モリン氏がいる。日本と台湾の高層建築の全てに関与したと言われ、高層ビル建築の統率役として多大な功績を残した。1920ー2012年4/7=92歳で没。私は郭氏と縁があって1985年頃、当時65歳の郭氏に華僑の大富豪の紹介で出会っている)。山下寿郎氏は,世界的にも有名な山下設計の創業者である。

山下寿郎氏が昭和3年に独立をして最初の記念すべきビルが丸石ビルデイングであるという。山形県出身。東京帝大=東京大学卒・日本建築士学会会長を務め、昭和58年2月2日94歳で死去。  地震の時の力の吸収方式の違いで丸石ビル=剛構造。霞が関ビル=柔構造=(五重塔がヒント) そのほかには免振構造などがある。

現在、丸石ビルは大洋商会が管理している。ビルの創業当初は一階に輸入販売代理店をやっていた大洋自動車の米国GM自動車のショールームがあった(元国際興業社主・故小佐野賢治が働いていたという)。
2000年(平成10年)に移設したライオン像


そして日本の陸軍に軍用自転車(実用自転車)を納めていた兄弟会社の丸石商会(丸石自転車)=丸の中に石のマークの石川商会から屋号を変更。が2階に本社を構えていた。陸軍の自転車部隊は銀輪部隊と言われていた。太平洋戦争時マレー半島において銀輪部隊は1日に100kmも走破する為にわずか70日で英軍を蹴散らしてシンガポールを陥落させたという。当時の自転車は軍需産業でもあった。

大量発注の為、溶接の甘いB級品でも納入を通過させていたと当時、陸軍の海外補給物資担当者の回顧録がネット上に載っていた事がある。海外派兵が急展開の為、補給物資の絶対量が間に合わない為、現地修理できると判断しての事らしいが、国産車は海外品に比べて品質が良かったので、民生用の自転車で軍用という特別仕様車ではなかった事が少々驚きでもある。

ビルの名前の由来でもある。日本では長い間、老舗ブランドであった丸石自転車は03年に架空増資などの株詐欺集団事件で被害にあい倒産。筆頭株主であった大洋商会の株券は紙くずになり大損をした。現在、丸石自転車というブランドは新会社で再建されたが中国企業に転売されている。

当時のビルの6階には日本ビクターの録音スタジオ(RCAビクターの頃)があったという。当時としては超モダンな美術館のようなビルであった。

古いビルは保守管理と維持がされなければ朽ち果てていく運命にある。東京空襲で焼夷弾などの被害を受け、車の排気ガスで真っ黒になった無残な外壁に、初めてリフォームの手が入れられたのが平成8年である。
それ以前には平成6年に木の窓枠をアルミサッシに変え、ウインドウファン(窓に付けられたエアコン)の撤去などは行われていたのであるが、内部暖房は重油のボイラーで蒸気を循環する方式。ウインドファンは夏場になると熱交換冷却で出る水滴が雨だれのように歩道に降り注ぎ、きわめて評判が良くなかった。その後、窓型は撤去され、エアコンは室内個別の冷暖房方式に切り替えられた。窓型エアコンは美的外観も悪かったが、屋上にエアコンの屋外機を集中配置して配管は壁に少々、目立つが、現在は設計当時の外観に近い容姿を維持している。

リスの両膝の足しか残っていなかったのを復元した。


外壁にはエアコンの撤去の跡やらで無数のボルト穴の補修痕で汚れ放題であった。平成8年頃に、私は縁があって、えぐれたり、ひび割れた真っ黒な外壁をビル洗い屋が洗浄して白くなった頃、外壁の補修を始めた。建築石材の取り付けが本業であるが、私の専門外であったが彫刻も補修できる人がいないということで、半分ボランティア的なスタンスで始めた。1週間程、試行錯誤の末、彫塑という技法で今の色や素材の形に落ち着いた。

彫刻の多くは亀裂欠落が多く発生していた。まともな形をしているモノを写真に収めて。それを参考にしながら修復をした。写真のリスも足だけしか残っていなかったのを修復した。足の周りは草花の葉である。欠けて無くなった彫刻を一つ一つ手彫り風に復元した。茶色の別館がある室町通り(日本橋三越本店)側が本来の正面玄関である。


2002年3月に国の登録有形文化財になった。

現在はライオン像が置かれている北側の玄関が本館の出入口。実はライオン像は現在のビルの裏側(南側)の2階部分のアーチ型の窓のところに、1頭づつ独立してアーチの専用の窓の台座に4頭が並んで鎮座していた。今川橋という名前だけが残る、今は埋め立てられて無くなった龍閑川があって、当時はその川面に雄姿を映しだしていたという。

移設する時は大変であった。3m程の高さにあった壁に埋め込まれていたライオンのシッポを石材カッターで解体。足場が狭くて落下の危険性もありながら大変な状態で取り外した。後は4人がかりの手作業で簡易型3本柱のクレーンを作っでチエーンブロックを使って100kg近いライオン像を2階から降ろして移設した。

4頭のうち2頭はまだ館内に保管されている。ライオン像の表面がタテガミや鼻が欠けて剥離したのを修復した。今でも建物の裏側は表側と違って手入れがされていない為に崩落が激しい状態である。
聖人(聖職者・キリスト?)


平成10年頃にライオン像を2頭、現在の玄関に移設した。石種は黄竜石(きたつ石)。総称:竜山石は柔らかい凝灰岩で、青竜(あおたつ)石、黄竜石、赤竜(あかたつ)石と3色ある。当時の正門玄関に赤竜石が使用されている。内部のタイルや階段なども修復。

外壁の彫刻など200カ所以上を修復した。丸石ビルは1999年に長期にわたって維持管理がされているということでBELCA賞(ロングライフ部門)を受賞2002年3月に国の登録有形文化財になった。
1999年BELCA賞


3年ペース位で化粧直しや手入を行っているが、彫刻の剥離や崩落の危険性は無くなった訳ではない。ある人はカメラに収めるには、汚れ古びた苔むす表情の方が価値があって良いとのたまう事がある。(上記3枚目の写真)。しかしながら、建物の価値を維持するためにも、手入れを怠るわけにはいかない。

古い建造物は補修管理などが近代ビルに比べて数倍大変なのである。欧州の石の文化の手厚い保護政策に対して、日本は木造建築が主力である為か文化遺産の認定はしても補助金はびた一文出さないと云う文化財保護政策の後進国である。国の文化財と言いながら、ビル所有者の負担で管理しろという。価値のある多くの建造物が消滅の危機に瀕している。


無機質でシンプルな表情の近代ビルに対して建築家やビルオーナーの建築アートに対する愛着と云うのか遊び心と云うのか美術コレクター的と云うのだろうか!所有者のコダワリや設計者の心意気。この建物が好きで当時からテナントとして利用する企業の人達やビルを訪れる人達の心のビタミン剤と云うのか癒し効果としてのヒーリングアート。


この建造物はパワースポットの役割をも果たしてくれている。私自信が修復に携わっていながらも毎回、不思議なエネルギーに包み込まれる。穏やかな気持ちになり、自然に手が動く、力が湧き出てくるのだ。私自身が癒されているのだと思う。
修復の初期の頃などは66年間も彫刻の修復の手が入らなかったのだから、彫刻達が歓迎してくれて、私の手を導くように、ここはこう直すんだよ!とばかりに手が勝手に動くような感覚が伝わって来た。私は、一種のトランス(催眠誘導)状態に陥り、夢中になって修復作業をしている事が多かった。不思議な出会いと縁でもある。当時建築に携わったであろう職人達の熱い想いのエネルギーが身体を駆け巡った。着工は1929年世界恐慌の時代である。職を失いかけた、優秀な職人も土工さん達も飯が食えるぞーと言う一声で大勢が集まったという。3年間も拘束される建築現場。モノ作りが好きなアート系の職人にとっては至福の時間でもあったと思う。不景気で不安な時代に宗教色の強い建造物は訪れる人達に、どのような影響を与えたのであろか威風堂々と構えて、勇気と希望と精神的なよりどころの癒し効果は絶大であったのではないだろうか? 
それに比べて、なんて冷たくて無機質な近代建築はシャープでスマートであるが、ストレスを感じる。居心地の良い空間ではないのだ。本来、人間はアナログな生活スタイルが良いはずである。デジタルな環境では発狂する。携帯電話など電磁波が脳を狂わす。言い過ぎなのかな? 少なくとも、タイミングがずれるなど変、最近、異常な事件やアクシデントが多すぎないか!

電車・電気自動車・電化製品といったオール電化の時代。便利さと引き換えに不健康な生活スタイルに疑問を感じなくなる麻痺した文化の時代とは言い過ぎなのだろうか!ロハスな生活スタイル。スローフードな食べ物。東京駅だってレトロな建物が復活し初めている。癒しスポットの必要性が価値を持ち始めている。丸石ビルデイングの用な建造物が再び脚光を浴びているのだ。 
オッとと!少々エキサイト脱線してしまった。癒し効果のある丸石ビルの話に戻らなければいけない。化粧直しの際、壁石の色を実は一つ一つ濃淡を意識して変えてある。同じ濃淡のないベージュ系で仕上げると安っぽい近代建築になりかねないので、積み重ねた石の個性を出す事で平坦な壁ではなく立体感と歴史が感じられる演出でもある。個性とか演出は邪道だと言う人はいると思うのだがこの建物と会話しながらの結論である。

丸石ビルのテナントの企業に採用されて、初めて訪れた人の中には圧倒的な存在感に足がすくんで中に入るのをためらったとまで言われたが、居心地が良いという。是非とも素晴らしい至福の時間を堪能していただきたい。  次回は個性的な彫刻達の紹介を予定。(JR神田駅南口より徒歩4分)


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